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乗り越えない。

まだ元気だったころの花火。
最期は一緒にいられなかったけど、これからはずっと一緒にいられるね。


「乗り越えない、その悲しみと共に生きる」と、あるドキュメント番組で特集されていた人の言葉。
思い出すというより、あの番組を観て嗚咽したあの時から、その言葉に心がくっついて離れない。

大事な人を失うことを、「乗り越えられない」 とずっと思っていた。
小さな動物の死にすら向き合えない弱っちい心は、自分の「甘え」だとも。

だけどその番組のなか、仕事はバリ バリできるし年齢は「立派な大人」のその人が、大事な家族を失いぼろぼろに打ちのめされて、自分が生きているということがわからなくなって、でもそこから はい上がっていく姿を見ていたら、何かが変わった。

「誰にだって乗り越えられない壁や悲しみはある。それを乗り越えられない時は、その壁 や悲しみと一緒に生きていけばいい」

と言うその人の眼差しにはやはりまだ悲しさがにじんでいて、だけど力強くて優しい。

「乗り越えなくていいんだ」と思ったら涙が出て、それから、「一緒に生きればいいんだ」と思ったら、すごくホッとした。

つらくて悲しいとき、「いつまでこれが続くんだろう」と思ってしまう。
そこから抜け出そうとしても抜け出せず、もっと絶望することになる。
だけど、つらくて悲しくてどうにもできないときにはむしろ「一生付き合って行こう」と腹をくくることが、その絶望から自分を救い出す手だてなのかもしれない。

「その気分わかるけど、みんな。絶望するの、やめようぜ」とフォイルの竹井さんは言った。

理不尽さはおそらくいくつになっても、どんなときに も人につきまとう。
だけどそれを前にじっと体をかたくして、柔軟さを忘れるのは、おもしろくない。


犬には「死」という概念がありません。
この生活がいつか終わるという感覚がわからない。
だから、ただ毎日を一生懸命生きているだけなのです。


いつか何かの本で見た一文。

花火は最後の日も、「明日は何して遊ぼうかな」って考えて眠ったのだろうか。
「死」というものに怯えてはいなかった。それだけが救い。

私も、花火のように生きたい。

今日の今このときも、過ぎ去ってなくなって取り戻すことはできない。
失い続ける日々。
それを知っているからこそ、毎日一生懸命に生きなくては。

特別なこと、立派なことをしなくてはならないというわけではなくて。
あたりまえのことを大切にしていれば、それでいいのだと思う。

| 22:44 | comments(24) | trackbacks(0) |
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大丈夫。

去年、熊本に行ったとき。横断歩道を渡りながらの一枚。



動き始めるときって、不安に陥りやすい。
なにか少しでもつまずくようなことがあると、「これは、やめといたほうがいいんだろうか?」とか考えてまた先行きが不安になって、不安なもんだから色んなことに神経がいってしまって、また不安が増えるという悪循環。

だけど、こういうときって一体どうするのが正しい態度なのだろう?
若いときは、すぐに決着をつけたがっていた。とにかく白黒はっきりさせたかった。
だけど。
適切な「大人の態度」のようなものが知りたいなと思ったのだ。

不安な精神状態のまま、何か事を進めようとすること自体がやっぱりよくない。
それでも、前に進むしかないときには、「大丈夫」が重要なキーワードになる気がした。

自分のなかに「大丈夫」を持ってる人って、強い。

その日、テレビで明石家さんまちゃんが「悩まないし、落ち込まない」という話をしていた。
「悩みに打ち勝つ力を持ってへんねん」と言うと、他の出演者はきょとんとしてる。
テレビを食い入るように見つめる私。

「あー、今日アカンかったわ、うけへんかったわーと思ても、それが自分のベストやねん。今日の自分がベストなんやろ、アカンかっても。」

心に響く音がして、番組がおわってからもずっと反芻していた。

今の自分には今の自分の悩みを解決する力なんてない、と割り切る潔さ。
そうか、そうか。できないから、悩む。自分に何かが足りなくて、悩む。だけど、悩んでも解決できないんだ。動かないと。動かないことには。
そうか。なんだか大丈夫な気がしてきた。

できないことはできないし、できることはできるし、それをちゃんと知ってればいい。
できないことをできるように振る舞ったり、自分に過剰に何かを背負わせて苦しまなくていい。

私、大丈夫だ。

安心して前に進もう。

| 00:27 | comments(0) | trackbacks(0) |
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変わらないもの



土曜日。「トリノエジプト展」へ行ってきた。

正直、エジプトとか興味ないし、とか思っていて、まったく期待しておらず。
結果、観に行ってほんとうによかった、とおもった。

エジプト関係の本を読みたいなあと思うくらいに。

紀元前何千年とかいう、「それって何年前ですか?」って聞きたくなるような時代に作られたものとは思えない精巧な作品の数々、とかそういうことに感動したというよりも。
精巧に見えてもそこに「人」の存在を感じさせるものがかわいらしく思えてしかたない。

古代エジプトの人たちは、人間がどうにもできない自然界の脅威を(例えば天災や、蛇の毒やライオンの獰猛さなど)恐れるだけでなく、敬い、神として崇めていた。
中でも「死」に対する恐怖は、どれほどだったのだろう。

彼らは、現在生きているこの姿は仮で、死後の世界にこそ本当の姿があると考えていたらしい。
それは「復活」という言葉で表現されているのだけれど、「亡くなった人を悼みながら、その人の復活のときのために数々の準備をする時間というのは、彼らにとって満たされた時間であったにちがいありません」という解説に、すこし泣きそうになった。

棺にぎっしりと刻まれた文字や絵たち。
一体どんな気持ちで、これを彫ったのだろう。
きっと、その人とのことを色んな人たちが思い出して、そこに何を残そうと一生懸命話をしたり、一晩中考えたのだろうな、とか、そうでもなくて結構お役所仕事ぽかったり、現代のお坊さんのお経みたいな決まりきった文句なのかもしれないとか。

たくさんの彫像のなかには、偉い人たちだけじゃなく、ふつうの家族の姿や、亡くなったお母さんとか親子かお友達のツーショット、なんてものもある。
写真がない時代に、どうしても形にして残したくてこういうものを作ったのだろうかと色々考えたら、じーんときた。

今あるもの、過ごしている時間を、すべて「仮の姿だ」と考えていた彼らにとって、現世の幸せというのはとても儚いものに感じられたのかもしれない。
人間のちっぽけさを自覚し、自然を敬うその姿勢はとても一途で、ただひたすら石や木に祈りを刻み込む人々の姿を想像すると、「生きている」ということについて考えさせられる。

今私たちが必死に残そうとしているものは、何千年もののちに誰かの心に届くのだろうか?
肩肘をはってカッコつけて見栄を張って作られたものよりも、案外、普段の営みの中で残された何でもないモノが心に響いたりするのかもしれない。
それこそが、時代を超えて繋がっていく共感。人間って、時代が変わっても根本はなんにも変わらないのだとおもう。

| 07:44 | comments(0) | trackbacks(0) |
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ご無沙汰しています。



4年も前に書いていたブログを、まだ読んでくれている人がいることに甘えてずっと消さずにいたのだけど、また読んでくれていた人を見かけて、胸がいっぱいになった。

あの頃のブログ、というかあの頃の日々はいつも何かと闘っているようで、それを吐き出すところが必要で。
こんなものを公にさらしていいのかというような内容だったろう。
それを、面白がったりときに一緒に苦しみ、涙を流したりしながら読んでくれる人たちがいた。
顔も知らない他人のことなのに、自分のことのように。

エネルギーは伝染する。

エネルギーは、放出されているところに集まるのかもしれない。

私は、ここ数年ずっとじぶんのなかに、その「エネルギー」なるものを溜め込んできた。
意図していたわけではなく、こぼさないようにとそっとそっと暮らしていたら、結果そうなってしまった。

最近、そろそろ外に出しても良いのではないか、と思えるようになった。
出すほどのものもないんですけどね。

私のブログを読み返してくれた彼女が言った言葉が、眠ったように穏やかだった心をぐんぐん揺さぶった。
「おいオマエ、いつまで寝ぼけてんだよ!外に出てこい!」
そう言われているような気がした。
はい、すみません。
そろそろ、みんなとおなじ土俵に上がらねばなりません。

良きにせよ悪しきにせよ、人に影響を与えるようなもんを、書いていきたいもんだ。

| 01:30 | comments(0) | trackbacks(0) |
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写真展。

広島フラワーフェス


今日はリセットの日。 朝からカラダが重く、気分も持ち上がらない。あまりにしんどいので、ベッドに寝そべったまま化粧をしようとするものの、そんなでは準備がまったく進まない。 どうやら夏風邪のような。暑くて寒くて変な感じ。

昨日は、大雨の明けた天神へ、あまり気は進まなかったけれど、出かけた。 本城直季さんの写真展・トークショーのために。
大雨の影響で来れなくなってしまった方がいたらしく、キャンセル待ちをしていた私に早朝、電話があったのだった。中止の連絡だと思ったのでびっくり。
窓の外は、相変わらず大雨。

本城さんは拍子抜けするほど素朴な方だった。自然体。肩肘はってない。
スケールのどでかい、だけどなんだか「かわいい」作品を創りだすにぴったりのキャラクターと言えば、そうだ。
そしてとても口べた。言葉がうまく出て来ないといった感じの沈黙がたくさんあった。 言葉で表現できないことを、写真で表現しているのだからそれでいいと思うし、説明臭い人よりもずっと好感が持てた。

未だどこにも公開されていない写真や、学生時代に撮ったという家族写真なども見せていただいたが、とても興味深かった。サファリの写真で、ヘリで撮ろうとすると動物がみんな逃げちゃうのでほとんど後ろ姿しか写っていないものとか、かわいらしかった。


おなじカメラマンでも、長野陽一さんとはぜんぜん違うタイプの人だなあと思う。
でもやっぱり、かわいさのなかに「チクリ」と針がある。
そこがとても大切なポイントのよな気がする。

「実際にモノを創りだしている人の言葉」を聞けて、相方も色々と刺激を受けたようで、9月に行われる霧島アートの森での蜷川美花さんのトークイベントにも行きたいと言っている。


前に一度霧島に行った時にはまわれなかった「霧島アートの森」。

是非行ってみたい。


| 22:09 | comments(0) | trackbacks(0) |
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I'm Home.

やはり、またここに帰ってきました。

近日公開予定。

| 18:49 | comments(0) | - |
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